Dental technician school days
Willi Gellerは1940年ドイツに生まれました。その後オーストリア の Lake Constance から 200m の ところ の地域で、普通の子供のようにボール が あれ ば サッカー を し て 、 石があれば 石 で 遊ぶという質素 で 幸せ な 生活 を送りました。Gellerは小さい頃からモノ を 作る の が 好き で 日曜 大工 やガーデニング などおこなっていました 。通常子供の頃といえば車に夢中になる物ですが、Gellerは 車 の メカニック よりも、兄の影響もあり、ヨット を 作っ て レース を するという事に非常に興味をもっていました。ここには、Gellerの兄がヨットの趣味を持っていたという大きな影響があったからでした。 そして 、彼はクルー の 一員 となり 、 ヨット の 掃除 から 始め て 、 ついに セーラー に なっ た の です 。それは 子供 の ころ の 話 です 。これらの体験は現在の趣味 セーリング の原点となっています。ですので、彼の講演の中にセーリングの写真や、Creation のプロモーションビデオにもヨットの動画が入っているのは、こう言った理由からでした。
Geller が歯科技工士になったきっかけは、5 人の兄弟と一緒に育った彼は、兄と一緒にヨット仲間として遊んでいました。Geller の兄のヨット仲間に歯科医師がおり、その歯科医師は、情熱 的 で 、 絵画 など が 好き な 芸術 肌 の 人間 で 、 ある日、Gellerの兄 に 歯科 技工 士 に なっ て み ない か と誘ってきました。しかし、彼はその仕事に全く興味は持ちませんでしたが。なんらかのきっかけの時にふと歯科技工士の話を彼はGellerにそのことを話しました。Geller はすでに 捺染*(なつせん) の 見習い を し て い ましたが、Geller は自分の性格から、この職業では創造性への欲求を満たせないことに気付きはじめ、あまり その仕事に満足 し て おらず、丁度その時期に Geller は転職 を 考え て い た 時期でもありました。
偶然その時期に、兄 が 歯科 技工 士 の 話 をふと 彼に話したことが歯科技工という職業に偶然出会うきっかけとなりますが、Geller にとってその歯科技工士という仕事の出会いは一目ぼれのようだったと語っています。
当 時 、 Gellerの 住ん で い た 町 に は 2 軒 しか ラボ が なく 、 両方 とも 2 、 3 人 の 歯科 技工 士 しか おらず 、 それ 以外 は 院内 ラボ という時代でもありました。
技工学校時代
1964年?、オーストリア・ウィーンの歯科技工学校卒。技工学校は3カ月の間、家には帰れず寮生活をしていました。生徒数は男女合わせておよそ30人で、皆若く、幸せそうで、楽しい青春時代を過ごしました。Geller は社会経験があり他の学生達よりも少しばかり歳上でした。そして、Geller はそこで将来の伴侶になるクラスメートの女性に出会います。
Gellerの学生時代の思い出として、歯科技工学校には勉強のできる同級生もいましたが、「私はキャスティングや補綴物制作などの技工が特別上手かった。もちろん、今の基準からすると、当時の基準は何がベストかは分かりませんが、Gellerは今、若かりし日の自分を客観的に俯瞰しても他の学生とは違っていたと語っています。
当時の技工学校は、3ヶ月間寮生活をし技工学校に通う。そしてラボで4年間の研修期間(雇用契約期間)を終えて資格が得れます。Gellerはその後、雇用契約期間を得るためにラボに努めます。
技工の仕事を教えてくれた師匠 はいつもひとりで仕事ばかりしていました。Geller は、当時彼のラボで見習いをしていたのですが、彼が何をしているか、何を教えてくれるのか、何を経験しているのか、とても興味がありました。 雇用契約期間の技工所の師匠 は Geller にとても愛情をかけてくれました。それは、Geller が善人だからとかいうわけではなく、Geller は一生懸命仕事をして、彼の仕事をいろいろと助けたからでした。
Gellerは師匠 のこと を 父親 の よう に 尊 敬 し て おり、そして 師匠 は 私 の こと を 息子 の よう に 愛し て くれ まし た 。 彼らは、お互いにとても良い 関係 を保ちながら仕事をしていました。 おそらく Gellerの 師匠 は 、 Gellerが 歯科 技工 という 仕事 を 愛し て いる の を 見 て 、 Gellerに 愛 と 自 信 を 与え て くれ ました 。 人 を inspire する という こと は 、 とても 大切 です 。 Gellerは 、 師匠 から インスパイア さ れ て 歯科 技工 の 仕事 を 愛する よう に なり まし た 。たぶん師匠はGellerの才能をこの時すでに見出していたのだと思います。師匠 は彼の息子よりGeller によくしてくれました。Gellerは彼とはこの件については話したことが有りませんが、「私(Geller )と彼の息子とが友達のように一緒に成長したからだろうと思います」と語っていますが、そこにはGellerの才能、彼の仕事への忍耐強さ、彼の仕事へのひたむきな集中力を、誰よりも唯一知っている師匠、技工士としての父親というものがあったのかと思います。師匠の息子は父親の後を継がず、宝石細工人になりましたので、そういう面でも息子の分をGellerに託し、可愛がっていたのだと思います。
Geller は、雪が降る日も、雨が降る日も、片道40分かけて天気の良し悪しに関わらず、自転車で出勤していました。ある日、彼がラボに朝に出社すると、師匠が技工机にうつ伏せになって寝ているではありませんか。技工学校を卒業したてのGellerとしてはその状況が信じられませんでした。当時はボスのそういった行動、技工士の世界が理解できませんでした。
Geller は、ただ、「おはようございます」とだけ言ってラボに入り、彼になぜラボの机で寝ているのかは決して尋ねませんでした。もしかしたら、彼は私にその姿をあえて見せていたのかもしれません。彼は、見かけが良く、ハンサムでした。彼は昼夜、常に仕事をしていました。真相は仕事が深夜まで及び、仕事をしながら寝てしまったのだと思います。
例えば、今日、Geller はべニアのケースを、口腔内にボンディングしたり、印象を採ったり、全ての工程を自分でやる事があります。それには最初の技工所のこのボスの影響があると思います。当時はとにかく今とは全く違った状況でした。そのボスは技工士でありながら、患者の口腔内で支台歯を形成をしたりしていたのです。(このボスに関わらず、そういった技工士は世界的に多くはなくても存在していました。)Gellerはボスが支台歯形成をしている時に、理容院で使用するブロアーに水を入れ、水を一滴ずつ歯に垂らして歯牙が加熱しないようにすることなど、アシスタントをしながら、ボスからたくさんのことを学びました(Gellerは、理容院でブロアーで切った髪の毛を掃除しているのを見て、そのブロアーに水を入れて大きなスポイトになると思いつきました。)。Gellerは彼から学んだたくさんの経験がいつも頭の片隅にあり、ある日、Gellerは自分でも知らず知らずのうちにそういったことを実行するようになったのです。今 思い返すと、当時の経験が今のGeller の仕事に影響を与えており、興味深いことです。
4年後、雇用契約期間が終わりに近づき、Gellerは、師匠に「雇用期間が終わりったら、退職させていただきます」と申し出た時、彼は、「あなたは辞めないで、ここにそのまま居たらいいじゃないか」と言いました。しかし、私は、「辞めさせていただきます」とだけ言い残しラボを出ました。Gellerはこの時の心情は語っていませんが、Gellerは師匠がGellerのことを愛していたことは上記のことからも十分に感じていましたので、そのことは辛い決断でもあったはずでが、Gellerは自分の才能を信じ、次の技工所へと就職を決断します。また師匠も彼の才能をすでに感じていましたので、必要以上にGellerを引き留めることをしませんでした。
Gellerはスーツケースを持ち、街を出るために駅に向いました。その時にGellerが覚えている風景は、街燈の灯りだけがポツン、ポツンと等間隔に見え、街灯だけがGellerのいく方向を照らし見送っているようでした。その先の駅では列車を待っていたのは Geller だけでした。Gellerはこの街と、自分が育った歯科技工所を去るという感傷的な気持ちと、次への就職先での希望の入り混じった複雑な気持ち、状況は、今思い返すとその景色は古い映画のようだったと語っています。そこにGeller一人しかいないプラットホームに、もう一人後から誰かが現れました。 そこに現れた人は、Gellerにわざわざ見送りに来てくれた師匠だったのです。Gellerは師匠がプラットホームまで見送りに来てくれた事に対して本当に驚き、その状況に鳥肌が立つほどでした。彼は、私に一言「行ってしまうのか」という言葉に、Gellerは「はい」とだけ答えました。ここは二人の言葉少ない状況ですが、お互いの信頼関係や、お互いの性格がよく解っている故の状況のやり取りでした。その時にプラットホームに列車が来てGeller は列車に乗り込み、師匠にさよならを告げますが、それが永遠のさよならになるとはGellerは知る由もありませんでしたし、師匠はプラットホームまでさよならを告げに来たことは、彼の自身の運命を無意識に悟り、彼に行動させたのかもしれませんでした。
Gellerが師匠のラボを退職してから2、3年後、師匠の奥様から手紙が届きました。手紙の内容は、「師匠 は 、まだ 50 歳 の 若 さ で 技工 机 に 向かい ながら 仕事 中 に 亡くなったこと。彼が亡くなったのでラボをあなた(Geller)に引き継いでほしい」という主旨のことが書かれてありました。その手紙を読んだGellerは真っ先に、「以前、師匠が技工机でうつ伏せに寝ていた時の姿」が脳裏をよぎり、このような歯科技工士の環境、状況は良くないとこの手紙を読んだことで彼は心にしっかりと刻み込みます。また、歯科技工所の引き継ぎに関しては、Gellerはその依頼を引き受けることはしませんでした。今思い返してみても、当時、Gellerは若すぎて彼のラボを引き継ぐことなどできなかったと回想しています。
話は少し前後しますが、Gellerは技工学校を卒後、オーストリアのラボにて4年間勤務し、その後大規模なラボのハイエンドセラミック部門で部長を務め、審美を追求するポジションに着きます。Gellerは当時から美しいメタルセラミックスを作りたい、クラウンでは無く歯を製作したいという願いがありました。彼の言う美しいメタルセラミックスとは、「自然であること」、「老年代の歯の色調にはそれなりに再現された歯を作ること」、それを再現するためには、表面ステインだけでなく、ボディ陶材に他の材料や、ステインを混ぜて作らなければなりません。 当時の陶材にはオペークが1色、エナメル、デンティンがありましたが、カラーオペークは有りませんでした。ステインは有るとはいえ、色数がとにかく少ない時代・環境でした。これでは、私たちの求めるものは作ることは、まだまだできない時代でした。Gellerは症例のひとつひとつの色調再現するために、陶材の色を独自にブレンドし、色再現の実験のように考えて製作していました。当時からポーセレンクラウンのサンプルを作る人はたくさんいましたが、Gellerはサンプルを作るのではなく、日々の臨床ケースが、色調との戦いで、いかにもサンプルケースを作っているかのような臨床でした。当時から こういう仕事の仕方をする技工士は世界から見ても非常にまれでしたが、この経験が後のGellerのポーせれんの知識、経験深めて構築していくこととなります。
メタルセラミックス陶材の色調再現のための色配合が複雑になるにつれ、熱膨張率等にも問題が生じ、数々の材料を混ぜて改良しながら使うことは非常に困難な作業でした。Gellerは、こういった実験をしていくことで、これにより多く経験を積み、陶材の性質を学ぶことが出来ました。その頃から歯科産業は歯科医師方面だけではなく、少しずつ歯科技工からの影響を受けることで、歯科技工士にも目を向けて行きます。
Gellerは言います。「とはいえ、残念ながら当時の我々歯科技工士は、まだまだ人として扱われてはいない時代でした・・・」
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